平安時代の酒飲みチャンピオン!亭子院(ていじのいん)酒合戦

2017年4月18日

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平和な時代にはよく行われていた酒の飲み比べ

古来より酒の飲み比べというのはよく行われていたようです。
現代では、例えばテレビで酒の飲み比べをやるなんてことは考えられませんが。

現代では学生の飲み会でも一気飲みは自粛されてるくらいですからね・・・いや、昔はよかったとかじゃないですよ。
酒の飲み比べなんつーのは今やらないよな、ってだけで。一気飲みダメ、絶対。

大体がこういう催しが行われる時ってのは天下泰平な時であって。

極論戦国時代なんかでは酒の飲み比べなんてイベントはなかなか開かれない。

江戸時代にも開催されたなんて記録があるそうですが、まぁ、ノンキな時代に開かれるということですな(笑)
じゃ、現代日本は天下泰平ではないってことか・・・?

今回は、平安時代に亭子院という場所で開かれた、「酒合戦」という催しについて書いていきたいと思います。

酒の飲み比べに合戦とかって物騒な名前がつくあたり、まぁ平和なんだろうなぁという気はしますね(笑)
果たしてチャンピオンは誰なのか、どのくらい飲んだのか?

酒合戦が行われた時代

闘酒が行われたのは、「延喜・天暦の治」と呼ばれる時代。
10世紀の初期に当たる時代で、醍醐・村上両天皇の時代でした。

この時代は王朝政治・王朝文化の最盛期であり、後々の世から理想とされる時代でした。

「延喜・天暦の治」とは、醍醐・村上両天皇の治世を聖代視することから生まれた言葉なのです。

実際には平将門の乱や藤原純友の乱が起こったり、中央政府の財政難、地方役人の乱で秩序が乱れたりと、そこまで太平な世の中ではなかったようです。

延喜・天暦の治も、単に律令国家体制から王朝国家体制への過渡期であり、様々な改革が試された時期だった、というだけみたいですし。

ただ、この改革の波にうまく乗れたおかげで、
繁栄ムードに酔える貴族も中にはいた、ということのようですな。

この時代、まだまだお酒は貴族のものですから、お酒の飲み比べを行えたのも貴族だけでした。

現代のように、貧乏学生が居酒屋で一気飲み対決、なんてのはあり得ないわけです。
そんな中で、宇多法皇の離宮である亭子院で酒の飲み比べが開催されることになります。

上戸・下戸・大戸

延喜11(911)年6月15日、宇多法皇は「大戸(たいこ)をよんで、賜うに醇酒をもってした」とのこと。

醇酒は現代の言葉ではしっかりとしたコクと力強さがあり、「これぞ日本酒」という王道のお酒のことです。
しかしもともとの言葉の意味としては、混じりけのないお酒という意味に加えて芳醇な、濃厚なお酒という意味があるようですので、酒豪用に造られた強めのお酒だったのかもしれません。

ちょっと余談ですが、大戸という言葉について。

大戸とは、いわゆる上戸のこと。
上戸・下戸はそれぞれお酒の飲める人、飲めない人を指しますが、これらの言葉はそもそも家の等級を表す言葉でした。

もともとは家族数が多いのが上戸で、少ないのが下戸。

「口減らし」なんて言葉がありますが、口数、つまり家族の数で家の等級を分けていたのが上戸・下戸の始まりです。
家族が多くて働き手が多い方が納税額も多いので、「上」戸なんですね。

婚礼の時なんかに出されるお酒の量も家の等級で決まっており、上戸はたくさんお酒が出せたけど、下戸は少ししか出せなかった。
このことから転じて、たくさんお酒を飲める人を上戸、あまり飲めない人を下戸、と呼ぶようになったと言われます。

また、中国の言葉が発祥とする説もあるとか。

万里の長城を守る兵士には、寒い山上の門を守る「上戸」と、平地を守る「下戸」がいました。
そこで、上戸には体が温まるようにお酒を、下戸には体の疲れが取れるよう甘いものを配っていたことから、上戸が酒を飲める人、下戸は甘いものが好きな人、という意味になったんだそうです。

どっちが本当かは分からないそうですが、
管理人個人としては中国発祥説のエピソードはちょっと無理がある気がするな・・・(笑)
中国では酒が飲める人のことを何て言うんだろう?

上戸・下戸という言葉が出始めたのが691年のことだと言われてますので、911年のころには大分定着している言葉だったんじゃないでしょうか。

なので、上戸という言葉では飽き足らず、お酒をものすごいたくさん飲む人のことを大戸と呼ぶようになったのではないかと。

言葉の表現がエスカレートしていくのは現代と一緒ですねぇ。
美乳、巨乳、魔乳・・・みたいな(笑)

とにかく大戸がたくさん集められ、宇多法皇によって開催されたのが、亭子院酒合戦、というわけです。

亭子院酒合戦

亭子院はそもそも、貴族の歌合わせなんかの催しが行われるところでした。
今で言うイベントホールみたいなもんでしょうか。

そこに集められし8名の大戸たち。
まぁ、要するに大酒飲みが集められたんですけども(笑)

参議 藤原 仲平(なかひら)
兵部大輔 源 嗣(つづく)
右近衛少将 藤原 兼茂(かねもち)
藤原 俊蔭(としかげ)
出羽守 藤原 経邦(つねくに)
兵部少輔 良岑 遠視(よしみねのとうみ)
右兵衛佐 藤原 伊衡(これひら)
散位 平 希世(まれよ)

これらの大戸は、酒の点では
「並に皆、当時無双、名号はなはだ高く、酒を飲んで一石(いっこく)に及ぶとも、ただ水を浴びるがごときやから」
だと形容されています。

ちなみに一石は約180リットル(一升の100倍!)になります。

平安時代の一石が現代と同じ量なのかは分かりませんが、現代より多少は少ないにしたってずいぶんな量ですよねぇ。
180リットル飲んでまだ水を浴びるようなもんだって、そんな、無茶な(笑)

この時は勅命により20盃を限度にして飲み合うことになったようです。
盃にしっかりと墨でしるしをつけ、注いだ量が一定になるようにして回し始めます。

1~2盃は調子よく、3~4盃は問題なく、5~6盃はなんとかかんとか回し飲みしていたのですが、7盃目あたりからおかしくなってきます。

満座酩酊し、皆ヘロヘロフラフラ目を回し、騒がしくもなってきました。

平 希世は門から外に出てそのまま倒れて爆睡。
藤原 仲平は殿上にゲロを吐くわ、その他の連中もなんだかわめいているけども何を言っているのか分からない、というありさま。

結局のところほぼ全員がゲーゲー吐き始めたようです。もう、想像しただけで地獄絵図(笑)

そんな中、変わらず飲み続けていたのが藤原 伊衡。

周りが7~8盃くらいでゲロゲロになっている中、10盃まで平然と飲み続け、宇多法皇に「もうよい」と止められるまで飲み続けていたんだそうです。

飲んだ酒の量もすごいんだろうけど、周りで吐きまくってるなかで酒を飲み続けてるってのもすごいわ!
管理人ならそこまで酔っ払ってなかったとしても、確実にもらいゲロする(笑)

こうしてチャンピオンになった藤原 伊衡は、賞として駿馬一頭を賜ったのでした。

ちなみにこの藤原 伊衡、「後撰和歌集」以下の勅撰集に11首が入るほどの歌人で、歌舞にもすぐれており、一説によるとなかなかのイケメンだったとか。

歌人で、歌舞に優れ、イケメンで、酒豪?
なんつーか、見てる分には面白いけど、奥さんとか近しい人はものすごく苦労させられそうなタイプですね、藤原 伊衡(笑)

ちなみに、この時の盃のサイズは記録に残っていないようです。なんてこった!その当時の大盃というと三升盃というものがあったそうですので、そのくらいの盃が使われたのではないかと考えられているんだとか。

仮にこの三升盃が使用されたとして、飲めなかった人でも3升×7盃で21升、藤原 伊衡に至っては3升×10盃で30升。

37.8リットル~54リットルのお酒を飲んだということになります。

まぁ、話半分だとしても18.9リットル~27リットル、10分の1だとしても3.78リットル~5リットル・・・これくらいならギリ飲める人もいるかな?それにしたってすごいですが(笑)

とにかく亭子院酒合戦、まさに酒飲みチャンピオンを決めるにふさわしいハイレベルな闘いだったといえるでしょう!!

まとめ

・酒合戦が行われたのは、一部の貴族にとっては平和な時代でした。
・上戸・下戸に加えて、大酒飲みは大戸と呼ばれました。
・酒合戦で優勝したのは藤原 伊衡。駿馬一等を賜りました。
・しかし、歌人で歌舞に優れイケメンで酒豪って、いけすかねーな、藤原 伊衡(笑)

そうは言っても、例えに出てきた一石は言いすぎでしょう!
この時仮に藤原 伊衡が一石飲んだとすれば、10盃で一石だから、盃一杯10升=18リットル・・・飲める飲めない以前に、持てない(笑)

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